日本・スイス国交樹立150周年記念 フェルディナント・ホドラー展
及び ネーデルラントの寓意版画 及び 常設展
於・国立西洋美術館
の目撃談 (2014の21)
ホドラーのリズム、パラレリズム。 類似する形態の反復。シンメトリーをなす構造。 並べる。似ているけれど、すこし違うもの。
パラレリズムは、埴輪のリズムでもある。
2010年の『ザ・コレクション・ヴィンタートゥール』で、ホドラーの絵にひかれた。 (その時の目撃談ザ・コレクション・ヴィンタートゥール) この展覧会でホドラーの名を知った。 もっとも、このときの作者名はフェルディナント・ホードラー。 表記のゆれが、日本での知名度を物語る。 本展開催によって人気が高まれば、状況は変わるかも。
それはともかく。 かつてひかれた作品が、本展でも展示されていた。 《レマン湖畔の柳》1882年頃 再会の喜び。(『ザ・コレクション・ヴィンタートゥール』での作品タイトルは「ジュネーヴ湖畔の柳」) 初期の作品ということもあり、今回はあまり大きく取り上げられていないが、やはりよい作品。 やはり同じ感想を持つ。柳が女性に見える。
本展の図録によると、左下の人物がどういう人なのかはっきり分からないというような説明。 ヴィンタトゥール展のときは、確か女性と書かれていたような。記憶に自信はないが。 ともかく、柳にくらべて存在感がない。人よりも木。
初期の絵は《マロニエの木》1889年もよかった。 やっぱり人よりも木の時代なのね。
《病み上がりの女性》1880年頃 弱々しい感じはない。 回復期だからか。むしろまあまあ元気なときよりも、上昇の勢いがある、ということか。
だんだん輪郭線がくっきりしてくる。
並べるなら、数は3か?
黒田清輝は右から『智・感・情』。 ホドラーは、右から『情・感・体』かな。 右から 《悦ばしき女》1910年頃 《遠方からの歌V》1906-7年 《恍惚とした女》1911年 連作ではないが、踊る女性像が3つ並ぶ。 展示によるパラレリズム。
《恍惚とした女》が特によい。体とその動き。力。うねり、回転。
ほどよくついた筋肉。 男女の体の表現は、他の画家にくらべて差が少ないようだ。 顔は、他の画家にくらべて重要性が低い。顔より体。
並べる数は3とは限らない。 《感情 III》 1905年 4人が並ぶ。 顔ではなく体。あるいは体全体。服なんかあってもなくても、というような感じだ。 顔をあまり見せない構図は、モネの《ゴーディベール夫人の肖像》を思い出す。
パラレリズム。 並べることで、画面の外にもリズムがおよぶ。 広がり、散らばり。 ポロックのオールオーヴァーに通じるものがある。
ただ ホドラーは 人体と山以外は、描く気がないのか、というくらい適当だ。 特に花。もはやすごい、といいたい。 この人は得手不得手がはっきりしている。 向かないものは、あっさり切り捨て、力を入れていない。 《トゥーン湖とニーセン山》1910年など、顕著。
山は、ホドラーの目には人体と同じように映っていたらしい。
《ミューレンから見たユングフラウ山》1911年 ベルン美術館 空の青が目を引く。 本展のサイトやポスターなどでは、さらに赤を効果的に加えているので、引き立つ。 ただ、山より空、の印象かな。
実際に絵の前に立つと、山の絵は緑系の絵の方がよかった。 《シャンペリーで見るダン・ブランシュ》1916年 《シャンペリーの渓流》1916年 (同タイトル同年制作の作品が2点。どっちだったか… 岩がごろごろのほうがいい)
山肌の赤みがかった土の色がいいので、対象色の緑を使った絵の方がよいのかも。
見たことのない山々を、ホドラーの目を借りて見る。
並べる数は5のこともある。 《「無限へのまなざし」の単独像習作》 さすがに壁画はここまで運べないけど、習作でも、5枚並べると迫力のパラレリズム。 無数の習作をしたそうな。
パラレリズム。 習作する行為そのものも、パラレリズム。
パラレリズムはどこへ向かうか? イメージは帯。人間の身長+αくらいの幅の帯が、延びてゆく。 パラレリズムA:○、すなわち円環。 パラレリズムB:○、すなわち地球のある点(スイス)から宇宙へ直進。 など、考える。
《バラのある自画像》1914年 《バラの中の死したヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルの遺骸》1915年 バラ、と言われなければバラなのかどうかわからない花。 花だろう、というところまではなんとか。 だがバラを配したことに意味がある。のではなかろうか。
ホドラーは、顔の画家でもなければバラの画家でもない。
人体の画家でしょう。山もいいけれど。 人体は再配置。山はそのまま。 人は動く。山は動かない。
動かない人は描けない。
《白鳥のいるレマン湖とモンブラン》1918年 白鳥は、配置には気を配ったが、描き込まれていない。まあ白鳥だとはわかる。
そういえば、動物はほかに見あたらなかった。 動くものでも、人体じゃないと画題にならなかったのか。
ホドラーの目を借りて世界を見る。
武者小路実篤がホドラーの詩を書いている。 「汝を想う毎に、 我おちつきを得、 内に力充つるおちつきを得。」 ( 参照『武者小路実篤詩集』新潮文庫)
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常設も見る。
ホドラーが影響を受けた、というギュスターヴ・クールベ3点が展示されていました。
ほか、このとき気に入ったもの、気になったもの。 《哲学者クラテース》1636年ジュゼペ・デ・リベーラ 哲学者とは修行僧のようなものか。
《花と果物、ワイン容れのある静物》1865年アンリ・ファンタン=ラトゥール オルセーに人物画が出ていたが、この人は花でしょう。 アンリ・ファンタン=ラトゥールの目と、ホドラーの目がいかに違うか。
《あひるの子》1889年ジョン・エヴァリット・ミレイ みにくいあひるの子の意らしい。 みにくいとは? ひとりだけ違う、単独、孤独ということか。強烈な個性はみにくさに通じるのかも。
《ラ・ロシュ=ギュイヨンの道》1880年クロード・モネ 《ヴェトゥイユ》1902年クロード・モネ 《ピアノを弾く妻イーダのいる室内》1910年ヴィルヘルム・ハンマースホイ
《水浴》1920年モーリス・ドニ 光。陽光。
《字を書く少年》1920年モーリス・ドニ 男の子だったのね。そして光。
《ばら》ピエール=オーギュスト・ルノワール この花は、バラである。 バラのみ。しかもバラの花のみ。 どういう目的があってこの絵を描いたのだろう。 花束代わりのプレゼントかな。
いろんな芸術家の目を借りて世界を見た。 世界は何倍にも広がる。 世界は無限である。
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ネーデルラントの寓意版画 版画素描展示室
寓意は意味するところがしっかり伝わることが第一。 しかしあまりにも手あかのついた表現を使うのはどうか。 普遍性を追求すると、手あかは気にならなくなるのか。 むしろ手あかがたっぷりついているくらいがいいのか。 いつの時代でも伝わる、ともかく何が言いたいかわかる、ということはだいじ。
季節。 わかりやすい。
五感。これもわかりやすい。 視覚、聴覚、嗅覚、味覚ときて、あれ触覚がないなと思ったら、 ぐるっと回った裏に展示されていました。これはわざと? でしょうね。
美徳。 ちょっとわかりづらかった。
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混雑状況報告。 空いていました。それこそ踊れるくらいです。 タイミングによっては、部屋を独占してました。
時間延長の日だったからかも。しかもこの日は雨。
展示室内が寒かったのは、空いていたせいでも雨のせいでもない。 作品のための温度ね。 はじめは上着を持って、後半ははおっていました。
踊ったら体があったまるかも。 たぶんおこられる。
4往復ぐらい。
2014/11/01(土)16:45-18:30訪問 |
帰りにふりむいて一枚
《ミューレンから見たユングフラウ山》1911年 ベルン美術館
この壁画には赤いラインがない…
あれデザイン的には秀逸なのに
原画を尊重した、ということか。
もう一枚
《感情 III》 1905年
闇に浮かぶ感情
このページの画像はすべて、上記館所蔵もしくは展示の作品などを、埴子が撮影したものです。 |
2014/11/04up
日本・スイス国交樹立150周年記念 フェルディナント・ホドラー展 会場|国立西洋美術館 会期|2014年10月7日(火)〜2015年1月12日(月・祝)
会期|2014年10月7日(火)〜2015年1月12日(月・祝)
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